センリヲトオル
何が、ということも無いが疲れていた。
結婚生活が始まりはや二年。来月には一児の父親。だがそんな実感も無いまま月日は流れていた。思い返してみれば、私の二十六年と三ヶ月の人生にも様々なドラマ――他人と比較することで特別素晴らしいとは言えないにしても、私のドラマは私だけのものであり、何にも替え難い財産だ――があったと記憶しているが、普段はというと平凡かつ単調極まりない毎日を送っている。
しかし例え急激な変化の真っ直中にこの身を置いていたとしても、鈍い私はその時はちっとも気付かず唯単に疲れてしまって、幾日か経ってまた平凡な日常に戻ってから、彼の日を懐かしむのである。
多分今は、そういう変化の真っ直中にいる。
理屈が分かっているのだから貴重な今を存分に噛み締め、出来る限りのことをしておきたい。後に振り返って悔いの残るような物語にはしたくない。そうは思うものの、なにしろ私は睡魔にはめっぽう弱いのだ。今は苦いコーヒーを飲み、なんとか眠気を凌いでいるが、幾ら寝ても、何を食べても疲れと眠気が取れることはない。
車のワイパーが静かな音を立て規則的に雨を拭う。信号待ちで止まった車の中で、ライトに照らされ暗闇に浮かび上がった雨粒をぼんやり眺めていると、より一層眠気が増した。
「眠いの、透?」
あくびをかみ殺した私に気付いて、千里(せんり)が助手席から顔を覗き込んできた。
「ああ平気だよ、千里」
父親になるという実感が全く無いまま、彼女のお腹はもう随分と膨らんできていた。多分、体調もそれ程良くないのだろうが、気分が悪そうにしている姿を見たことは殆ど無い。大抵いつも機嫌良く潑剌(はつらつ)としている。時には、自分が妊婦であるということを忘れていて、私を冷や冷やさせることすらあった。
同じマンションに、ある日から突然、他人同士で住むということ。
元々私は人に気を遣うまめな性格である上に、大学時代の一人暮らしでの自由奔放な生活に慣れきってしまった所為か、他の誰かと住まうことそれ自体に多少の気詰りを感じてしまう。その為か慢性的な緊張状態が続いていた。おまけに、「日本男児たるもの……」なんて台詞が全く似合わないタイプの私には古風な夫としての態度などというものには馴染めないことはおろか、どちらかというと大人しい性格の妻、千里の尻にも自ら敷かれに行ってしまう有様である。
これくらいの年月が経つと、お互い気を許してしまって緊張感の欠片も無くなるのが夫婦間の常識なのかは知らないが、私達はというと新婚当時から変わらない生活を送っている。
彼女も昔と一向に変わらない態度をとっているし――千里がもっと自分をさらけ出してくれたら、かつて「彼氏」であった名残が消え、緊張も幾分か和らぐというもの。私はそんな贅沢な不満も持っていた。
疲れと眠気さえ無ければ。
もっと彼女と話し合う時間が出来る。曝け出して、互いに楽になれる部分があるなら、時間をかけて明かしていくべきだ。そうは思うのだが、人生というものは……なかなか上手くはゆかないものだ。
などと考えながらまた私が欠伸を噛み殺していると、隣でカチャッという音が聞こえた。シートベルトを外す音だった。千里は立ち上がり、車が止まっているうちに後部座席に移ろうと身を乗り出していた。
「ちょっと移動」
「おいおい、いいから! 直ぐ着くって」
信号は青に変わり、前の車が動き出した。私があたふたしているその間に彼女は移動を完了し運転席の後ろに座った。
「よいしょっ……と。こってますなあー」
「まあ…………」
私が疲れているのを察知して、小さな手を一生懸命に広げて肩を揉みほぐしてくれる。顔は見えないが、彼女がにこにこと笑っているのが分かる。千里は私の前で怒った事も泣いたことも一度も無かった。
「大丈夫だよ、君だって疲れてるだろ」
「そんなことないよ。それに、透に触れていたいの」
顔が熱くなる。こんな年になってもまだ。千里から顔が見えなくて良かった。こんな中学生のような私を見せたら、恐らく彼女は一層愛おしいと耳元で囁くだろう。が、私だって彼女の前では男らしくありたいのだ。
「……体調は?」
「平気。ありがとう」
目的地の総合病院の前に車を停車させると、彼女は私の肩から手を離し――やはり名残惜しい――鞄を肩に掛けた。
「じゃ、行ってくるね」
「ああ、気をつけて」
傘を差した彼女の背中を見送ってから、私は首をぐるりと回してほぐし、でかい溜息をついた。
「へーえ、私の居ないところでは、そういう感じなわけ」
「千里!?」
振り返ると後部座席には先程車を降りたはずの千里が、普段見せないような不敵な笑みを浮かべて座っていた。
「え、だってさっき……? お、降りなくていいのか?」
「降りたわよ。見ていたでしょう」
「で、また乗ったんだろう?」
「降りたわ」
「……どうぞ?」
「何が」
「降りてもいいよ」
腕を組んだまま、彼女は動かない。「忘れ物か何かしたのか」と問うと、彼女は意味あり気に笑った。その瞬間、冷たい空気がさあっと足下に広がった気がした。そして私は気付いた。いつもなら忘れることなど無いのに、どうして今回に限って、という後悔の念が私を襲う。
「お……お別れのキス?」
「違うわよ」
千里は髪を、これまた普段見せないような感じで色っぽく掻き上げ、小さく溜め息をついた。
「取り敢えず、ここじゃ長い間止めておけないから、近くの公園にでも車を止めてくれる?」
「どうして? だってこれから病院に行くんじゃな――」
言いかけ、目の前の信じられない光景に口をつぐんだ。
「子供は……お腹の子供はどうした。もう産んできたのか」
情けなく震えた声で目の前の相手に問う。大きく膨らんでいた筈の千里のお腹は、まるでぺたんこだった。目の前居るこれは千里ではない。体が、今すぐ逃げろと警鐘を鳴らしている。ところが私のものである筈の体は、強張って全く動かない。
見た目も、声も、彼女そのものだ。しかし全く温度というものを感じない。足元に広がっている冷たい空気は、この世のものではない何かがが近くに現れた時に感じる、霊気というやつだったことに私はようやく気が付く。
相手は私がようやく状況を飲み込んだとみて、喉の奥からくっくっと笑い、氷のように冷たい視線を私に向けた。
「千里はもう、車を降りたわ」
「じゃあ、君は誰なんだ」
「『千里』よ。もう二年以上連れ添っているのに、何を言ってるの」
「そうだ、姿は、千里だ。でも、彼女は……そんな笑い方しないし、喋り方だって違う。もっと、優しいんだ」
私が言葉をつっかえつっかえ、やっとのことで言い終えると、相手は腹を抱えて激しく笑った。
「優しいって誰が? あなた、あれが本当の千里の性格だと思ってたの。あの偽善者は、あなたの知っている彼女の表層、しかもその表層の一部であって、『千里そのもの』じゃない」
この時の私の頭が真っ白でなかったとしても、意味を理解するにはしばらくの時間が掛かったことだろう。ばらばらの単語だけが聞き取れた――『偽善者』、『車』、『降りた』、『本当』、『表層』――しかし、何を言っているのか、内容は心に到達しない。
「あなただってそうでしょう。千里の居ない所では、面倒くさそうに大きな溜め息ついてるんだからさあ」
「君は、千里なのか?」
「彼女の魂の一部。生霊って私みたいなものの事よね? でも怨念がそうさっせたわけじゃないから安心して。こうして出てきてしまったのは事故よ。そもそも千里は私が外に出てくることなんかこれっぽっちも望んでなかった。それどころかあなたには――あなただけには絶対に見せたくなかった筈だわ」
「どういうことだ? 俺にはさっぱり意味が」
「人の魂が持つ空間っていうのは、残念ながら容量が決まっているのよ。楽しい気持ちと、落ち込んだ気持ちは同時には訪れない。何故なら空間に入りきらない為に一方が一方を押し潰してしまうから。でも時に、本人は至って幸せだと思っていても、意識の上らない所でストレスが発生していることがある。その場合、両極端の気持ちが強く結びついているから、押し潰されずに一部が千切れる形で体から置き去りにされることがある。例えば、車の中とか」
「つまり、君がその……生霊なのか?」
「多分ね」
この解説でなんとなく納得した私は、恐怖に身を包まれながらも、何度も大きく頷いた。
「彼女って内に溜め込むから、常に魂が膨張して狭っ苦しくて! たった今あなたの所為でまたスペースが狭くなったのよ。しかもこれから病院でしょ? 容量オーバーになるわけよ」
「俺の所為で?」
「まあね。大体、病院に送ってくれるのは有り難いけど、一緒に行ってくれたって良いんじゃないの? あなたが思ってるよりも妊婦って肉体的にも精神的にも大変なんだから」
「ああ、いや、ごめん。今からでも行こうか」
「結構不安なのよ。病院って場所に行くことそのものもね。もういいわよ」
「いいや、行くよ」
「いいの! 今は私の話を聞いてよ!」
「分かったよ。何だい……」
「………………。ごめん、久しぶりに本体から切り離されたから、考えがまだ纏まってないの。ちょっと待って、今何言おうとしたか思い出すから」
私の腕が肘掛けから、がくっとずり落ちた。こういう間の悪さで確かに彼女だな、と私は思った。声の震えも大分収まってきた。お腹が大きくないこと以外は彼女なのだ。
「来て欲しかったんなら、その場で言ってくれれば良かったじゃないか……。どうして言わないんだよ君は。機嫌良くしてると思ってたのに」
「だって、付き添うのが面倒くさいと思ってるかも知れないじゃない。無理して来て貰っても悪いし、そんな気持ちで来られても嬉しくないし」
「俺はどっちでもいいんだけど」
「ちょっとまだ考えてるから黙っててくれる」
「はい」
「それより何、どっちでもいいって。付き添ってあげよう、付き添ってあげたいとは思わないの?」
「や、ごめん思ってるよ」
「嘘ばっかり! 本当は面倒くさいと思ってるくせに!」
「付き添いたいと思ってるんだけどさあ……俺もどうしようもないくらい眠くて」
言って、缶コーヒーを手に取り持ち上げる。極度の緊張状態から一気に気が緩んだ所為か、自分の顔がへらへらしているのが分かる。
「何へらへらしてんのよ!」
「ごめんなさい」
と、クラクションの音が響いた。私も千里も驚きバックドアグラスを振り返る。後続の車が鳴らしたのだ。
何処か適当な場所に移動させようと車を発進させた。千里の生霊が言っていたように、確かにすぐそこ、一本向こう側の道に短時間車を停車させて問題ないような公園があった。
バックし停車させようと何気なくミラーを覗き込んだが、後部座席には誰も映っていなかった。それに私は改めてぞっとしてしまった。
「あの、続きを聞きます」
「ふうん。鏡に映らないんだ私。ま、そりゃそうよね」
「らしいですね」
私の声音はまたもや震え出した。
「考えたら、私だって出てきたくって出てきたんじゃないし、何かのメッセンジャーってわけでもないのよね。ただ、千里が病院に行ってる間、一時的に避難してきたってだけで。あなた、私に何か聞きたいことある?」
「正直、恐怖感の再来で何も思い浮かばないです」
「普段の千里の勘がどうして鋭いのかも?」
驚いて、後ろを振り返る。
「君、まさか生霊であることを良いことに俺の私生活を!」
「その反応……。本当なの? 私が妊娠してるっていうのに何をしたのよ、言いなさいよ!」
「なんだ、見ていたわけじゃないのか。生霊がかまをかけるなよ!?」
「ねえ、何なの? 何を見られたと思ったのよ。ねえっ、ねえ!」
「君に話す義務なんかないもんね」
「なに、それ! 透は私になんでもかんでも聞くくせに!」
「事実がどうなっているかまでは分からないじゃないか。お互いにね。君のお腹の子供が本当に俺の子供なのかだって怪しいもんだ。だって俺、子供が出来たなんて実感湧かないもん」
冗談交じりで言ってみたが何の反応もしないので、彼女の顔を覗き込む。髪の毛先を弄び、あからさまに聞いていない「ふり」をしていた。
「……え? まさか本当に? 本当に俺の子供じゃないっていうのか!? う、ウソだろ、なあ」
「ねえ、さっきの話。何をしていたのか話して、透」
「やだね、なんで言わなくっちゃいけないんだよ。夫婦の間にもプライベートは必要だ」
「じゃあもうこの話はいいわね」
沈黙。
私は体中から吹き出す嫌な汗を、タオルハンカチで拭った。
「捨ててないんだよ。まだとってあります」
「はあ!? 捨てるって言ってたじゃない。あんなもの子供が見つけちゃったらどうするのよ! ああ分かった。帰ったら速攻 探し出して明日ゴミ屋に持って行って貰う」
「やめてくれ! だって、君が子供を産むまで我慢している身にもなってくれよ! 頼みます」
頭を上げると、勝ち誇ったようににやりと笑った千里の生霊が、こちらを見下ろしていた。
「なあんてね。実は私が本体に戻ったからと言って、今の会話がそのまま千里の記憶として残るわけじゃないの。だから明日捨てられるってことは先ず無いわね」
「そうなの?」
ほっと胸を撫で下ろす。高まっていた鼓動が穏やかにリズムを刻み始めた。
「ま、潜在意識くらいには残るかもしれないわね」
再度早鐘のように鳴り出す鼓動。これは私の心臓への暴行ではないのか。
「それで、君のお腹の中の子供の話だよ。まさか俺の子供じゃないってことは」
「ないわ」
彼女はまた腹を抱えて笑っていた。まじバカだこいつ、と言って。千里が私に対してそのような言葉を吐いたことは一度として無かった。泣きそうだった。
「うん、そうだね。平和が一番だ」
「透、あなたの落ち込んだ顔って最高!」
相手が目が涙ぐんでいようが尚追い打ちを掛けてくる。ショックの余り思考能力は限界に達し、気を失いそうだった。が、停止しかけた意識の中で、私は一筋の光を見る。
「そうだよ! ってことは本人には直接聞けないような事で、かつ俺が知っておいた方が良いことは、君に聞けばいいってことじゃないか」
「そう言われれば、そうね。あぶれた魂の有効活用だわ」
「それってもしかして業界用語?」
「なにそれ」
「そもそも君は、その……千里とはどういう関係なんだ? まだよく分かってないんだけど。性格だって、普段の優しい彼女とは正反対と言っても過言じゃない。でも、彼女の考えと通じるところもあるし、俺たちの間に起った全てを知っている」
「少し複雑なんだけど、私が千里の一部であることは間違いないわ。魂の一部が千切れて私はここに居る。ということは、あの『優しい』千里がここに置き去りにされても良かったってわけ。でもそっちは使用中だから」
「もし優しい千里が放り出されたら、君が体を使うってこと?」
「可能性としては。でなければ他の誰かが使うことになる」
「君以外にも沢山の千里が居るってこと?」
「居るわよ。何人居るのか私は把握していないけど。でもこれって何も特別なことじゃなくて感覚的に知っているでしょう? あなただって、未だかつて姿を現したことの無い、ドエムのあなたを持っているかも知れないじゃない。そういうこと」
「酷い例えようだ」
「自分の知らない自分の心、把握していても隠している心、表に出す心。簡単に言うとその数だけ『千里』は居るのよ。殆ど体を使わせて貰えない私は『千里の知らない千里』。だから切り離され易かったのかもね」
「確かに、千里の怒ったところって見たことないんだよなあ」
千里自身も知らないのか。私はその事実に少しだけほっとしていた。
「一時的に避難しているって言っていたけど、どうして車の中なんだ?」
「こういう狭い空間の方が安定して存在できる感じがするの。で、今迄の経験則から言うと、検査が終わってから数分もすれば――心が落ち着いたら戻れる筈だわ」
「でも、魂の中が狭くなると、また君が出てくる。千里の魂の中の空間を広げるにはどうすればいいんだ?」
「千里のストレスの原因の内訳は、家事が三パーセント、家庭外での人間関係が七パーセント、妊娠が十パーセント、残り八十パーセントがあなた」
「俺!?」
「驚くことはないわ。主婦なんて皆そんなものよ。裏を返せば、それだけあなたを愛していると言ってもいい」
「そうか、そうなんだな千里……」
「調子に乗らないでよ」
「はい」
「この八十パーセントが魂を圧迫していることは明白」
と言って、千里の生霊は円グラフの印刷されたフリップを取り出した。
「今っ? それ、何処から持ってきたんだい」
「あなたが少し態度を変えるだけで、負担は軽くも重くもなる。お分かり?」
「分かるよ」
「責めるつもりは無いんだけど。だってあなた、他の男と比べても良い夫よ。今日だって病院まで送ってくれたしね」
「恐縮です」
「あなたの所為とは言ってしまったけど、問題は千里の方にもあるわ。人よりも溜め込み易い上に、この私が完全に表に出て来ないようにするのにかなりの負荷が掛かっているから。私が本体の――つまり『自他共に認める性格』の何割かに食い込むとしたら、負荷は軽くなるし私が切り離されることも無くなるだろうけど、それは本体の性格自体も変わることを意味している。あなたはあの優しい千里が好きなんでしょう」
「うん」
「ちょっと待ってよ、そういう返事は早いのね! 何が『うん』よ、私だって千里なのよ! あの偽善者が本物で、私が偽物だなんて思わないでよ」
「そりゃあ勿論、思ってないけど」
千里はひとりの人間……間違いなくそれは事実である筈だ。が、私はこの生霊にどう気を遣い、どう接すればいいのかしばらくは理解出来そうにない。
「何か、俺に隠し事とか、してないのかなあ」
「ああー……。無いわ」
「なんだよ、その微妙な反応」
「強いて言うなら、あなたが出勤した後、二度寝している。最近ひび割れた一眼レフは掃除していた時に落としてつけた。ネットショッピングで個数を間違えて大量のお茶パックを購入。実はRHマイナスではなかった」
「うんうん。まあ、輸血の心配がなくて良いんじゃないか……何だって、一眼レフ! 自然にひび割れるものよ、って言っていたのに!」
「ま、それくらいのものかしら」
「ああ、ありがとう……」
告白してくれたことに感謝すべきなのか、本人ということで怒っていいのか分からなかったが。
「どうかしたの?」
「いえ。そろそろ、時間が無いかもね……」
視線の先には緑色に光る車のデジタル時計。
「判るのか?」
「なんとなくね」
残された僅かな時間に当惑する自分を見つけたが、そのような自身の姿は、ほんの数十分前まで予想すらしないことだった。
相手の本当の気持ちを第三者に聞いて探ろうとするのは年齢を問わず誰しもしたくなるもので、私も例に漏れることなく、同様の興味を持っている。質問なら直ぐにでも思い浮かべることが出来た――生身の本人を前にして聞くにはなんだか恥ずかしくて、怖い感じがするものだ。
「二年経った。千里は昔からずっと変わらずに俺に接してくれているけど、今はどう思ってる?」
口許から離れた言の葉は、自身ではどうにも手の施しようがなく、風に乗って浮くに任せた。私はただそれらを自分のものでないかのように眺める。まるで愛を初めて目の前にした少年のように。
彼女はにっこりと微笑んだ。それはこの短い時間で何度も私に見せたあの不敵な笑みではなく、私の知っている千里の笑顔だった。
「私の愛に関してあなたが不安に思うことは、たったの一つもないわ。そしてあなたも同じように私を想っていてくれる。そう信じてる」
私はほっと胸を撫で下ろした。
「そうか。じゃあ、俺に対してさっき君が言った暴言は、表面上言っていただけで、本心ではないってことなんだね」
「あれは『私』の本心なんだけど、もしかしてまだ気にしてたの?」
笑顔は、また不敵な笑いに戻っていた。ほんの一瞬垣間見た優しい千里の面影は今は何処にも…………。
何処にもない?
自らの言葉に問うている自分がいた。
人に見せる自分が全てではないことを、人は誰でも知っている。だが他人に対しては? 無意識のうちに上辺が全てであると思い込んではいないか。もしくは上辺だけで判断するしか方法は無いと諦めて、その奥にある深遠な神秘に触れる作業を怠ってはいないか。上辺は、上辺でしかない。
『本当の千里』は何処に居る?
「そうだよ」
「何がよ」
「分かった! 千里は一人なんだよ。君も、いつも表に出ている千里も」
「私が、一人?」
「君は何人もの千里が居ると言ったけど、本当は一人だ。だって、きっと君が居なくなったら表に出ている千里も今の彼女では有り得ない。そうなんじゃないか? 経験が、人の心の闇と光、表と裏とを同時に作り出す。互いに互い無しでは存在できない。
また光が闇から学ぶことも、闇が光を利用することもある。どんなものも互いに支え合っている。だからどちらか一方を否定する事……一人の人間の色々な部分を切り離して考えることは、やっぱり違うし、切り離すことは不可能だ。しかも本当のことを言うと、表と裏なんて無くて、実体は一つなんだよ。う、上手くは言えないけど」
私は一息にそう言って千里を見つめた。何とも言えない表情をした彼女が何を感じているのかは分からない。しかし私は、パズルが解けたり、初めて見る景色を前にした時のような興奮を覚えていた。
「そうは思わない?」
ぐっと彼女に近づき顔を覗き込む。
「ひょっとしたら今度はドエムの俺の生霊が出てくるかも知れない。だけどそれも俺だよね」
「止めてよ、冗談なんだから」
「さあ。実際のところ、どうなんだろうね?」
私はいたずらっぽく笑っていた。ややあって、彼女の掠れたような声が聞こえた。その声に耳を傾けた。
「本当は気付いて欲しくてたまらなかった」
千里は私の前で初めて涙を見せた。「私を見つけてくれてありがとう」
「千里、君は誰?」
「あなたを愛している存在」
彼女の顔に触れようと手を伸ばしたが感触も感じぬまま。そこには深い暗闇だけが広がっていた。
雨脚は強くなっていた。
「千里」
丁度昼食を終えたところだった。窓からは暖かな陽光が差し込んでおり、私達はソファで寛いでいた。なに、と顔を向ける千里。
「どんな千里も千里だって知ってるから、安心して」
「どうしたの、透?」
ふんわりと笑った顔は、少しだけ紅潮していた。
「君にもし、人に見せない方が賢明だと考えている自分が居たとしても、それは人それぞれ誰でも持っているものだし、そういう存在を否定する必要は何処にもない」
この言葉が届いたのか、届いていないのか、千里はまっすぐにこちらを見ていた。
「人に見せない私、のこと?」
「そうだよ」
「どうしてそんなふうに思うようになったの?」
「君が、俺を愛している存在だから」
驚きに見開かれた彼女の瞳。
「すごい。透って超能力者?」
どちらかと言えば超能力者は君の方じゃないかと思うんだが。私は心内で苦笑いした。
「そうよ、私は。自分のことをそういう存在だと思っていたの! どうして分かったの!」
千里は私と自分の紅茶のカップを取り、大きなお腹で踊るようにキッチンへ向かった。
「あら、ティーバッグ切らしてるわ」
バッグというか茶葉の方であろうことを、私は知っている。そちらは数年は切らさないことだろう。
「ちょっと買ってくるわ」
「いい、いい。行ってくるよ」
「少し散歩がしたいの。いつも買い物してるんだから大丈夫よ」
「そう……」
それから一分もしない内に千里は買い物に出かけてしまった。
今思えば、彼女の生霊にもっと聞けることがあった気がするが、新たに知ったことと言えば、実質一眼レフとお茶パックとRHマイナスくらいである。後は、いつもとは少し感じの違う千里とお喋りをしていただけだ。
玄関から、ドアの開く音がした。
「どうした? 何か忘れ物でもした?」
ひょっこりとドアから顔だけ覗かせた千里。顔を赤らめたまま、返事はない。
「まさか、また……」
「まさかって?」
「お、お別れの……?」
「えへへ、そうだよ」
そうして出かけて行った千里は、一体『誰』だったんだろうとソファに腰掛け考えを巡らす。確実なのは、それが私の千里であるということ。そして、それだけ分かれば全て事足りる。
―おわり―
