ゆ ず 色 天 体 観 測
日々最低気温を更新していく十一月末。僕は夜空を見ようとベランダに出た。空気が澄んでいて、小さな星までよく見えた。
上着のポケットから携帯電話を取り出し、着信がないかを確認する。一つ白い溜息をつき、再び仕舞った。
雲の形は違えど、彼女と僕の頭上には同じ空が広がっている。こうして僕が空を見上げている内の、一瞬でも共に空を見上げていられたら――。
東京の大学に進学したゆずは、近くにアパートを借りてそこで一人暮らしをしている。友人を部屋に招き入れて、宴会をすることもままあるらしい。
家の農家を継ぐ僕に、彼女を追いかけていくことは不可能だった。
「清隆、寒くないかー」
ガラス戸の向こう側で、こたつに入ってテレビを見ている親父が僕を呼んだ。ブラウン管テレビはチューナーを付けて未だに使用されている。
「ダウンジャケット着てるからね」
それでも手は既にこれ以上ないくらいに冷え切っていた。
「風邪ひくなよー、明日は車で飯田さんとこ、行って貰うからな」
「はいはい」
再び視線を夜空に向ける。
実家の農場で栽培している柚子からつけられた名を、当人はあまり気に入ってはいないようだった。けれども僕はとても良い名だと思う。
「東京か……」
口の中で小さくつぶやく。前に一度、ゆずの所へ遊びに行ったとき、東京の人と関わる機会があった。釘の一本もまともに打てず、野菜が泥まみれであることも知らないような奴ら、と印象はあまり良いものではない。僕のこういう都会に対する見方は、地元でもやはり古いらしかった。
「たそがれ? 兄ちゃん」
声変わり途中の弟が、みかんを頬張りながら言った。奴、人の丹前を勝手に着やがって。
「馬鹿か、もう夜だ」
「そういう意味じゃないよ。大人の階段昇る黄昏さあ。ねえ、父ちゃん。なんだか最近兄ちゃん大人ぶってるよね」
こういうとき親父は決まって、大きく丸い目を、困ったように見開く。
「清次、お前そういうこと言うから兄ちゃんを怒らすんだ。それに誰だって子供から大人になるんだ。変わり目の時期ってのはな、なんかちょっとこう……」
「恥ずかしい感じ?」
「そ、違うぞ。決して恥ずかしいものなんかじゃないぞ。誰にでもあるんだからな。お前にもきっとあるぞ」
「ふうん。じゃあなんでコソコソしたりするんだよ、兄ちゃん?」
清次が同じく部屋の中から僕に話し掛ける。
「こそこそなんかしてねー」
「してるよねえ、父ちゃん」
「いいや、こそこそしたくなるのも仕方がない」
全く親父は毎度余計なことを言ってくれると、心の中で悪態をついた。
「やっぱりこそこそしてるんだ!」
「うるせえ、黙ってろ清次」
「兄ちゃんが怒った!」
我が弟はさも楽しそうに笑っていた。
「みろ、父ちゃんの言ったと通りだ。いいか、清次もいづれ好きな人が出来ればだな……」
清次は親父の前にわざとらしく正座をして、熱心に耳を傾けている。僕はそいつを嫌でも耳に入れ、顔を赤くしなければならない羽目となった。もうあの馬鹿二人は放っておくことにした。
ゆずも、僕のことを考えながらこんなふうに空を見上げることがあるんだろうか。そんなことすら一生聞けない気がしていた。
携帯電話を開く。
今、星見てるんだ。ゆずも同じ空見て――
送信せず閉じる。また白い溜息。僕は一体何がしたいんだ?
「えー、俺ゼッテェあんなんならないよ」
「やや、お前もその内解る。父ちゃんも母ちゃんに惚れた時はそれはもう……」
今季最低気温か。東京は確か六度だった。寒さに慣れない体には堪える。こんなにも寒くて真っ暗な時に、彼女が外なんかに出ているわけがない。それとも、都会のネオンは体まで温めてくれるとでもいうのか?
「ネオンがあっちゃ、星は見えないわな……」
「兄ちゃん、何か言ったー?」
馬鹿は放っておくことに決めていたのだった。
僕はまだポケットの中で未練がましく携帯電話を弄んでいた。こんな自分が好きではなかった。
高校生だった頃、僕が友人たちと遊びまわっていると丁度彼女からの連絡があった。僕の表情で察した彼らは、寄ってたかって好き勝手なことを言った。様々な憶測や、猥談。僕は彼女の事を、まめに連絡を取らないとむくれる面倒臭い奴だと言ったのだった。照れ隠しで言っていたつもりが口癖になって、とうとうゆずの前でも同じことを言うようになっていった。言霊は僕の思考を支配して、本当にうるさい人のようにも思えてきた。それから数か月後、彼女は何の躊躇いも見せずに東京へ行った。
僕が今メールを送ったとして、それをゆずの仲間が気付いたとして、彼女は一体何と答えるのだろう。それがあの時の僕と同じだったら良い気がしないのは当然のことだったし、何よりも、僕の切実な気持ちさえ信用しなくなっていることが一番恐ろしかった。
もしゆずがそのように思っているとしたら、今すぐそこへ行って違うのだと言いたい。気を使っているわけでも、気まぐれで連絡しているのでもない。言葉通り、君が、僕と同じ気持ちになっていることを望んでいるだけなのだ……。
しかし、実際どうなのだろうか。僕は何も知らない。今のゆずのことも、話に聞くだけの東京の友人のことも。
僕の都会に対するイメージが、悪い方へ悪い方へと想像を掻き立てる。繁華街の雑踏、うるさく鳴り響くクラクション、しつこく付き纏う居酒屋の呼び込み、酔っ払い、集団で夜の町を練り歩くホスト。
田舎者のゆずが何事もなく暮らせるとは思えず、また、僕は都会というものが、皆の言うよりももっと恐ろしく、人間の本性とか欲望というものがよくよく分かる場所だと感じていた。
裸のままに送り届けられた筈の同じ野菜が、定食屋では安い味だと言われ、高級料理店では焦げ目をつけられただけで有難がられと、まるで服でも着せられたかのように扱われる様は面白かった。欲にくらんだ奴らの目は節穴なのだ。浅はかなのだ。みずみずしい柚子の実さえも、僕らが注いだ愛情虚しく田舎者の服を着せられ色眼鏡で見られるのは耐えられるものではない……。
ところが彼女は東京が気に入ったのだという。あの中で、何か新しい楽しみでも見つけたのだろうか……それは一体?
今のゆずにとって僕は何なのだろう。電話越しにはっきりとこの耳で愛していると聞いた――だが、東京へ行き、以前より彼女の心の中を占める僕の割合は徐々に範囲を狭めているんじゃないか? もはや最後に耳にした、あの一言だけが命綱である気がした。僕らは今までの時間、一体何を築き上げてきたのか。
指先の冷えた血液が体中を巡る。
僕はベランダの手すりに力なくもたれ掛かりうつむいた。上空を見上げていた時間が長かった所為でめまいがした。
テレビを見て笑う二人の声が聞こえた。どうやら話は終わったらしい。
親父も、弟も、まるで別の世界の人間のようだ。自分を理解し助けてくれる人間などこの世には一人もいない気がした。人知れず、あの 闇に飲み込まれてしまいそうだった。
「兄ちゃん、どら焼き食べる?」
「要らん」
彼女が現れてから、僕は孤独になった。足しても増えることの無い足し算。渇きは潤すほどより一層激しく渇いた。この奇問の答えが欲しい……。
それにしても彼女はきっと何も知らない。この苦しみも、孤独も、渇きも。僕の身を引き裂かれるような思いの一端でも味わえばいい。そうすれば、彼女は僕をいたわらないわけにはいかないだろう。
「兄ちゃーん、どらやき」
清次がガラス戸を開けて呼んだ。
「だから、要らんと言ったろうが」
「まあまあ」
奴は構わずベランダ用のサンダルを履いて出てきた。
「なあ、ゆーちゃんのことだけど。俺な、兄ちゃんみたくはならねえ」
親父は一体こいつに何を吹き込んだのか。
「何で出てきた。家ん中入れ、がき」
「俺は大人だから、そんなこと言われても怒ったりしないんだよね」
「そういうところが、がきなんだ」
清次は星を探していた。
「俺、旅行で知らない土地に行っても星を見てると、『いつでも帰れるんだから大丈夫だぞー』って言われてる気がするんだ」
「ふうん」
「兄ちゃんは、そういうこと考えたことないの?」
「星の事くらい考えない奴はいないよ」
僕等はしばらく黙ってまた空を見上げた。弟を家の中に入れる尤もな文句も見つからないまま、僕は焦りに似た、一人になりたい衝動を抑えつけていた。
「繋がってるんだから、自分の足で何処へでも行ける。別に鳥を羨ましがらなくってもさ」
「鳥?」
「鳥を羨ましがる詩とか歌詞は沢山あるだろ?」
「確かにな」
「日本は海に囲まれてるけど、その時は船か飛行機で楽ちんさ」
「うん」
「あのさ、兄ちゃん」
「なんだ」
「俺な、好きな娘がいんだ」
「…………うん?」
「俺、兄ちゃんみたくはならねえ」
「は?」
「兄ちゃんは諦めてんだろ。ゆーちゃんと会うのをさ」
「何言ってんだよ、会うよ」
「いつだよ」
「それは向こうだって忙しいんだし、すぐってわけにはいかないだろうけど」
「じゃあもう一生会わないかもね」
「だから……なんでそうなるんだよ」
「ゆーちゃんは今の大学に行きたかったんじゃなくて、東京に行きたかったんだよ」
「違うね」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「理由がないからね」
「あるかも知れないよ」
「例えばどんなだ?」
「兄ちゃんから逃げたのさ」
まじめくさって言った清次に、何故だか僕は、腹の底からかっとなっていた。
「何を根拠に。お前にゆずの何が分かるって」
「わからないけど、なんとなくだよ」
「ほらみろ」
ぽつり、ぽつりと家の明かりが灯っている。僕はその向こう側に広がる、黒々と生い茂る雑木林に目を凝らした。
僕の心は徐々に冷静さを取り戻してゆく。
カゴを出た鳥は戻ってこない。今までの日々を全て忘れてしまったのではなく、自由が欲しかっただけ……。
「互いに縛り合うのが愛情じゃない。相手が行きたいというなら、快く見送ってやりいんだよ」
「へえ」
「……なんだよ」
「快く見送ってるんだ」
「多分な」
「で、これからはどうやって大切にするの? 離れているのに」
「……わからない」
遠くの家の明かりが一つ、消えた。僕等はしばらく黙っていた。
「なんとかなるさ。彼女が僕の知ってる通りの人なら、何も心配は要らない筈だよ」
僕は伸びと深呼吸をした。
「もう寝るよ。明日は朝早いしな」
家の中に上がろうと戸に手を掛けたとき、清次が口を開いた。
「俺、ゆーちゃんも兄ちゃんと同じこと、考えてる気がする」
「どうしてそう思う?」
「勘だね」
「また勘か」
「いや――二人は似てるところがあるからさ。兄ちゃんが辛いなら、ゆーちゃんも辛いんだと思う」
そこで一旦、清次は口をつぐんだ。
「俺の好きな人、しょっちゅう転校を繰り返してて、次はどこに行っちゃうか分からないんだ。今度気持ちを伝える。何て言われるか分からないけど、俺の気持ちは正真正銘本物だし、自信があんだ。これからもずっとそうさ。思い出になんかしたくないんだ。互いの気持ちが分かってる筈なのに心が離れていくなんて、そんなの哀しいだろ?」
清次は、僕とゆずの関係や、世の中の愛が全て永遠であることを望んでいた。僕もそうだ。だが自分の事となるとすぐに希望を見失ってしまう。
「大丈夫だよ、僕とゆずは。きっと会いに行くから」
家の中に上がると、親父がにっこりと笑っていた。
母さんが台所から顔を出す。
「あんたたち、二人して何話してたの?」
「男同士の話だよ」
振り向くと、窓の外には先ほどの僕と同じように、ベランダに寄り掛かって星を眺めている清次の背中が見えた。
〈終〉
